雛の使は佐保の姫
「よう、お前も家茂に呼びつけられたのかい?」
ひょいと襖を開け、顔を出した男がニヤリと笑った。
ここは二条城。
しかも在京中である将軍家茂の謁見を待つ諸侯の控えの間だ。
そんな場所を無遠慮に覗き込める人間など、そうはいない。
「一橋殿・・・」
容保は頭痛を抑えるように額に手をやり、慶喜を上目遣いで見上げた。
「貴殿も上様に召されたのですか?」
「ああ、ちょっと家茂に強請られてた物があってね。それを届けに来たんだ」
ずかずかと部屋に入り込むとドカリと容保の前に座る。
「ここは親藩の控えの間ですよ? 御三卿の控えの間では・・・」
「固い事を言うなよ。肥後と俺の仲じゃないか」
どんな仲だと言うんだか・・・と内心容保は思いながらも、言って聞く相手では無いと
早々に諦めた。
「しかし珍しいですね。上様が貴殿に何かを強請るなど」
「あはは、あれも奥方には甘いからな」
「は?」
軽く首を傾げた容保の目の前ににゅっと握り拳が差し出された。
開いたそこには男の手の中にすっぽり握りこまれてしまう小さな匂い袋がある。
「こないだ家茂に呼ばれた時に松本が来ててな。つれづれ語りのうちに
清三郎がこんなものを届けて来たという話になったんだよ」
慶喜の手から受け取った匂い袋を容保は手の上で転がしてみる。
一目一目丁寧に縫われているその匂い袋は浅萌葱の地色に白地の扇面が織り込まれ、
扇の飾り糸が鴇色で染められている。
西陣の織物師のものだろうが、袋の口紐もそれに合わせてか鴇色なのがひどく可愛らしい。
ふわりと鼻腔に届いた伽羅らしき香も華やかで、どう考えても目の前の男が持つに
ふさわしいとは思えない。
そんな容保の心中を読んだのか慶喜がクスリと笑った。
「俺にくれたんじゃないよ。江戸に居る奥にね、子供への土産のようなものだが
女子はきっとこういう物が好きだろうからってね。ちょっと思いついたんで
安産祈願の札をやった礼らしい」
律儀なもんだよ、全く。と笑う様子は嬉しそうだ。
「お前もやったらしいな?」
「ええ。国許の“おんば様”という安産信仰の寺のお守りを。あいにく私はそういった事に
詳しくないので家臣に聞いた所、皆が口を揃えて言うものですから・・・。
気づいたらその者達がすっかり手配しておりましたよ」
その時の賑わいを思い出したのか、容保の口元が柔らかく緩んだ。
「で、まあその話を聞いていた家茂が見たいと言い出してな。さっき見せたら欲しいと
強請られたって訳だ。御台様は京の出だから、きっとこういうものが懐かしいだろうってさ」
立派な打掛よりも、こういう小さな物を好む可愛らしい人なんだ、と
照れ臭そうに頬を染めていた家茂の顔を思い返す。
「でも、今お持ちですよね? 差し上げなかったのですか?」
また意地の悪い事を言って、見せびらかすだけ見せびらかしただけで、家茂をからかうが如く
取り上げてきたのかと、非難を含んだ視線を向ける容保に慶喜は苦笑する。
「いや、あまりからかうと松本の耳にも入って後々厄介だからさ」
清三郎まで怒らせると色々面倒だ、と笑う。
「実は同じ物を二個貰っていたんだよ。香は好き嫌いがあるから、と香りの違う物をね。
本当に細々と気を使うやつだよね、清三郎は」
容保の手から匂い袋を取り上げ、それを自分の顔の前で振ってみる。
ふわりと香が立ち上った。
「あいつら、今頃何をしてるかねぇ」
「セイ。ねぇ、セイ。こっちに来てくださいよ」
庭から総司の呼ぶ声がして、セイはゆっくりそちらに向かった。
桜の蕾も綻び始めた春の日差しの中、濡れ縁の前の地面に筵を敷いて総司が座っている。
「何してるんですか?」
怪訝そうなセイの問いかけに総司が目の前の縁を指差す。
「いいから、そこに座ってください。足はこっちに」
小さく首を傾げながら総司の言葉のままセイは縁に腰を下ろし、足を前に投げ出した。
それを自分の組んだ足の上に乗せると、総司は嬉々として懐から爪切りを取り出す。
「そ〜んなにお腹が大きくなっているんですもの。色々大変でしょう?
足の爪をね、切ってあげたいなぁ、ってね♪」
「はぁ?」
どこに妻の爪を、しかも足の爪を切る武士がいるというのか。
一瞬絶句した後、セイは慌てて足を引っ込めようとした。
だが総司ががっちり足首を握っていて引き抜くことができない。
「ちょ、やめてください。そんな姿、誰かに見られたらどうするんですか」
焦りまくったセイの言葉にも鼻歌交じりで総司は動じない。
「いいんですよ。私がやりたいんですから、気にしない気にしない♪」
本当に、もう。
この男はどうしてこう次から次へと妙な事を思いつくのだか。
セイは溜息を吐きながらまじまじと総司を見つめる。
しかもその妙な行動の全てが、不器用なこの男が精一杯自分を思いやって考えただろう
事ばかりで、セイにしてみれば顔から火を吹くほどに恥ずかしいのだが、
本気で怒る事も出来ないのだ。
何てたちの悪い・・・。
再びセイが溜息を落とす。
けれど総司は何がそんなに楽しいのか口元を緩めつつ、それでも傷一つ
つける事の無いようにとひどく丁寧に爪切りを操っていた。
「・・・何をしてやがる」
突然庭の一角から聞こえた声にセイの体がびくりと震え、はずみで総司の持った
爪切りの先がセイの指先を掠めた。
「・・・つっ・・・」
「うわぁっ!」
慌てて傷口に滲んだ血を舐め取ろうと総司がセイの足を持ち上げると、
その反動でセイの体が仰向けにコロリと倒れる。
どん、という音と共に聞こえた 「ぐっ」 と腹部の重さに息を詰まらせたセイの呻き声に
総司が顔色を変えて立ち上がった。
「だ、大丈夫ですか? 体、強く打ちました? ま、松本法眼に・・・」
セイの体を起こしながら必死に問いかける総司の様子に、セイが思わず笑い出し。
「大丈夫ですよ。ちょっと背中をぶつけただけです」
笑っていたセイが次の瞬間表情を固まらせ、総司の背後に視線を向けた。
「・・・副長?」
自分が声をかけた事が原因で起こった目の前の一連の騒動を、呆然と眺めていた土方が
ようやく我に返った。
「あ、ああ・・・」
総司はちらりと視線を流しただけで無言で部屋の中に上がり、セイ愛用の小箪笥の中から
薬を取り出すと再び庭に下りる。
そのままセイの足を膝の上に乗せ、懐から出した手ぬぐいで血を拭き取ってから
丁寧に傷口へと薬を塗りこんだ。
ぴんと張り詰めた空気を破ったのは大らかな原田の声で。
「そう怒るなよ、総司。土方さんだって何も神谷に怪我をさせるつもりで
声をかけた訳じゃ無ぇんだからよ」
「あたり前です。わざとだったら許しません」
怒気を滲ませた総司の言葉に土方が反論する。
「元々お前が妙な事をしてやがるから悪いんじゃねぇか。武士ともあろうものが
女房の足の爪を切ってやるなんざ、情けなくて涙が出るぜ」
「私がやりたいからいいんです。土方さんになんか関係ありません」
斬り捨てるように答えると、再び総司はセイの爪を切り出す。
「あの、もう・・・」
蚊の鳴くような声で総司を諌めようとするセイの言葉にも耳を貸さない。
「こんなにお腹が大きいんですよ。色々と不自由も多いんです。
それを夫が助けて何が悪いんですか?」
確かに総司の言葉に一理はあるが、土方とてそのまま承服する気はなかった。
「そんな事は里乃とかいう女にでも頼めば良い事だろう。みっともなくて見てられねぇぜ」
「だったら見なくていいです。私達の家で私達が何をしていようと、土方さんに
文句を言われる覚えはありません。だいたい何しに来たんですか?」
あからさまに迷惑そうな総司の様子に、土方が拳を握る。
“女房をもらってから、偉そうになりやがって、この餓鬼が!”
土方の内心を慮るならば、こんなものだろうか。
険悪な空気を気にもせず、恥ずかしさに首まで染めているセイの元に斎藤が歩み寄った。
「今日の分だ」
ぱらぱらとセイの膝の上にお札やらお守りやらが落とされた。
「また、ですか。すみません」
苦笑しながらセイが頭を下げ、総司も表情を緩めると部屋の中に視線を移す。
「こんなに貰ってもねぇ・・・」
その視線の先には台の上に綺麗に並べられた安産や子安のお札やお守りの数々。
おそらく三十は軽く超えているだろうそれらは全て隊士達から贈られたものだ。
セイが屯所の一隅に間借りするようになり、日々その腹部が大きくなるのを見ている男達は、
自分にも何かできないかと頭を必死に絞り、あちらこちらの寺社に祈願に行っては
ご利益を願ってお守りなどを持ち帰ってくる。
それを日々託されるのが夫である総司や兄代わりである斎藤なのだ。
原田が言い出した『新選組の末っ子』の呼称を誰もがひどく気に入ったらしく、
俺の妹感覚で何かと世話を焼きたがる。
中には相変わらず“俺の弟”感覚から離れられない者もいるようだが。
とにかく皆が先を争って京大阪の有名寺社にご利益を求め、挙句は故郷から
安産のお札を取り寄せる者まで出る始末だ。
おかげで江戸の水天宮のお札などは六枚も飾られている。
それらが局長、副長、井上、総司、浮之助、松本法眼が
別々に取り寄せた物だというのが笑える。
恐らく日野の佐藤家あたりでは、全ての事情をわかっていて土方の姉のおのぶが
笑っているのではないだろうか。
この時、日野でどんな騒動が起きていたのかなど、京の面々は知る由も無かった。
その顛末はセイが総司の子を無事に産み落とした後に判明する。
「で? お前はなんでそんな妙な事を思いつきやがったんだ?」
未だ総司の手に握られたままの爪切りを差して土方が問いかけた。
「ええ、この間島田さんが足の爪は切りにくい、と零していましてね」
諸士監察方の島田魁は大兵肥満でありながら実は諸事器用な男で、土方の信頼は
山崎に次ぐものがある。
けれど確かにその身は今のセイの腹部と酷似している。
「それを見ていたらセイも大変なんだろうなぁ、と」
ひょいひょいと最後の爪を切り終えた総司が満足そうにセイの足先を眺めている。
「にしてもよぉ、随分上手いもんじゃねぇか。お前はそんなに器用だったか?」
原田の疑問と同様に感じていた斎藤が何かに思い当たったように、
ハッと総司を見つめる。
「まさか、沖田さん・・・配下の連中を練習台にしたって事は・・・」
「ええ、よくわかりましたね、斎藤さん。事情を話したら、皆さん気持ち良く
足を貸してくれましたよ♪」
斎藤の脳裏にここ数日、微妙に足をかばって歩く一番隊士の姿が甦った。
「だから連中、あんな妙な歩き方を・・・」
「ええっ? 皆に怪我をさせたんですか?」
呆れたような斎藤の言葉にセイが慌てた声を上げた。
「だってセイの爪はこんなに薄くて柔らかいのに、男の爪は硬くて厚いんですもん。
ついつい力が入りすぎて深爪に。でもおかげで力加減も判りましたし、
ほら、こんなに上手く出来ました♪」
暢気な言葉に土方が怒気を叩きつける。
「この馬鹿野郎っ! 足になんぞ怪我をさせて、斬り合いの時に踏ん張りが利かなかったら
どうするんだっ!」
「その分は私が頑張りますから問題無いですよ」
さらりと返されたその言葉に、土方も絶句するしかない。
確かに総司が本気になったなら、平隊士の出番など無いだろう。
そしてこの男がそう言う以上、本気で一人で相手をするつもりなのだ。
ぎゃははは、と唐突に笑い声が響いた。
原田が身体を折って笑っている。
「本当に総司は神谷の為なら何でも有りなんだな」
「原田さんだって、おまささんの為ならたとえ火の中・・・でしょう?」
「だなっ。こればっかりは独り身の人間にゃわかるめぇよ」
新選組きっての妻馬鹿二人組の会話にセイと土方は肩を落とし、
斎藤は小さな溜息を吐いた。
「沖田の奥方が西本願寺の屯所に移ってから、ろくろく会う事もできないと
仰ってましたよね? 寂しいですか?」
悪戯めいた容保の言葉に慶喜がそっぽを向く。
「からかう相手がいないんで、暇が増えたってだけだよ」
相変わらず素直とは言い難いこの男の様子に笑いが漏れる。
「しかし・・・どうしてあの妻女の事となると、皆が皆して気にかけるのでしょうかね」
不思議そうに容保が呟く。
確かにあの華奢な身で男として武士として、新選組という荒くれ者の中で
働いていた事は賞賛に値する。
人物も素直で純粋な、人を惹きつける物があるとも思う。
夫である沖田の隊内での立場も周囲がセイを大切にする一因かもしれない。
けれど何故かそれだけでは言い表せない何かが、あの娘に向かって
流れているような気がしてならない。
「俺達はともかく・・・」
容保が思考に没頭している間、どこからか聞こえてくる鶯の声に耳を傾けていた慶喜が
ぽつりと話し出した。
「あそこの連中が清三郎を大切にする気持ちは判らないでもないよ」
容保は黙って続きを待つ。
「新選組ってのはさ、命を絶つ最前線にいる連中なんだろう?
いつも死線ぎりぎりで生きているんだろうね。明日も知れない孤独はどれほど深いか。
そんな事は傍からは判りゃしないけどさ。そんな中で新たな命が生み出されようとしている。
しかも夫婦揃って紛う事無き自分達の仲間だ。そりゃ可愛くて仕方が無いだろうね」
未だ手の中で遊ばせたままの匂い袋を鼻先で軽く振って、慶喜は話を続ける。
「隊以外の連中にしたところで、国許から離れている連中ばかりだろう。
この他人の街で同じに故郷を別に持つ人間が新しい家を作ろうとしてる。
沖田と清三郎の姿に自分達の国にいる家族を重ねてるんじゃないかね。
そして身内意識を持つ事で、自分の孤独を埋め合わせようとしている。
会津の連中だって清三郎を、何だかんだと構いたくて仕方が無いんだろう?」
容保が苦笑を浮かべる。
新選組など使い捨ての人斬り集団だ、と当初言っていた家臣達が、
今では何かと言っては近藤土方の力を頼りにする。
安産のお札の話とて、元々容保は京での寺社から選ぶつもりで尋ねたものを、
気づくと会津のどこそこが良いと周囲が嬉々として盛り上がってしまったのだ。
まだセイが隊士だった頃、幾度となく土方の使いで黒谷を訪れる度に、
屈託無く会津のお国話を聞いては喜んでいたらしい。
陽に向かって真っ直ぐ伸びる青竹のような若い隊士を会津武士は受け入れ慈しみ、
それ以上に狼と言われる乱暴者の集団が彼の隊士を愛おしんでいる事に親近感を持ったのだ。
少しずつ少しずつ、互いの距離を縮め、隙間を埋めていたのはあの娘だったのかもしれない。
「本当に不思議な娘ですな」
穏やかな容保の表情に何かを読み取ったように慶喜が眉根を寄せる。
「まったく清三郎は人気者だよね。あの黒ヒラメにはもったいないってもんだ」
不満たらたらの口調に容保が小さく噴き出した。
遠くで慶喜を探す声がする。
「おっと、いけねぇや。お城で行方知れずなんて事になったら、家茂に何を言われるか
わかりゃしねぇ。俺は帰るからさ、じゃあな」
スタスタと入って来た時同様、唐突に慶喜が去っていった。
その後姿を見ながら、一度くらいはこっそり屯所内のセイに会わせてやるように
斎藤に命じておこうか、と容保は思う。
きっとあの素直じゃない貴人は何のかんのと文句を言いながらも、
内心嬉々として出かけていくのだろう。
その姿を思い浮かべて、容保は笑った。
桜の演舞も遠からじと思わせる、春風そよぐ午後の話。